設計事務所」タグアーカイブ

楽観的でもなく、悲観的でもなく

さわやかな秋晴れの朝。
 
 
久しぶりに早朝出勤し、
進行中の物件を再確認。
 
 
 
語りかけていたスタッフが一人巣立った。
 
これから社会で何をやってくれるか楽しみである。
 
それはたった2年半だったけど
私の何がしかが
少しは移植されているだろうという
設計者としての自負があるから。
 
家族が増えた今
体が良くなったら
表面的ではなく
建築をもっと深く好きになってほしい。
その時また会うことが出来るかもしれない。
 
 
 
成長して巣立っていく者。
不器用だけど地道にコツコツ成長している者。
そして事務所に新しい風を吹き込んでくる者。
 
 
楽観的か悲観的かと言うよりも
より良くするためには
それぞれの自発的な意志によって調和していき
チャレンジしていかなくてはいけない。

それぞれの「ふるさと」

 
昨日は四万十市で「安並の家」の地鎮祭。
 
 
 
郊外を越えて田園風景が広がる土地を
ドライブする機会は少なくない。
 
夏も終わり、心地良い秋の夜風と虫の音が
よりいっそう「ふるさと」らしい風景を演出する。
 
しかし数分もたたないうちに景色は変わり
郊外型の飲食店やコンビニ、電気屋などが現れる。
 
 
前者のような原風景よりも
後者のような光景で育った世代にとって
「ふるさと」の光景は
どの街にも見たことあるような
国道沿いの光景なのかもしれない。

技術と根気

先日は今治市『玉川の家』の棟上げ。
 
規則性を持ったヴォリュームが
機能的に反復され、
それぞれが肩を寄せ合い、
広い敷地の中で
凛とした骨格が現れる。
 
 
暑い日の中での棟上げ。
 
建築を作る上で
技術と根気というのは大切だなぁ、
としみじみ思う。
 
豪快さと繊細さ
おおらかさと正確さ
単純さと複雑さ
 
同時に存在しなくてはならない
相反する要素を紡ぎ合わせられるのは
技術と根気の力なのだ。
 
汗だくになっている大工さんをみていつも思う。
 
 
0808-玉川の家02
5間(9.1M)豪快に飛ばしている梁。
 
 
0808-高松番町の家
『高松番町の家』の地鎮祭。
氏神さまと打ち合わせ中の神主さん。

三丁目の棟上げ

先日は「(仮称)西大寺の家」の棟上げでした。
 
 
ここに至るまでのプロセスはとても長く、
もちろん建て主にとっては一生の買い物なので
吟味に吟味を重ねてのプロセスでもありました。
 
ボクの事務所に問い合わせをしてくれる人たちは、
あらかじめ雑誌やホームページなどのメディアや、
ハウスメーカーや工務店の展示場などから
なんらかの情報を得ている場合が多いのです。
 
ボクもホームページなどで図面では表現しきれない考え事や
身の回りに起こることについてぼんやりと
出来る限り包み隠さず
徒然に綴っていたりします。
 
そう言ったことから
あ、こいつなら頼んでもいいか、
と思って依頼に来てくださるのだと思います。
 
こいつには自分をさらけ出してもいいか、
と思える人に出会うことは大事なことです。
 
人間どうしだから相性もあります。
 
ダメだと思ったら早くそこから逃げるのも
大事なことだと思います。
 
無理やり続けると相手に対して
大したことのないことで疑念や疑いが生まれたり
腹の探り合いをして、
変な駆け引きが生じてしまったりすると思います。
 
ボクは気が小さいせいか、
そういう関係がすごく苦手です。
 
お互いかっこつけずバカみたいに正直にいくことが
一番大切なことだと思っています。
 
正直でいればさまざまなロスがなくなり
結果的にはコストダウンにつながっていくのではないかと
思っています。
 
 
写真は「(仮称)西大寺の家」の階段の一部です。
バカ正直に隠れる部分を見せてしまいました。

どうあるべきか?

今治市「玉川の家」
 
 
岡山市「西大寺の家」と
今治市「玉川の家」の地鎮祭が
先月末と先週、無事執り行われました。
 
これから出来る限り
リアルタイムでアップしていきます。
 
§
 
事務所を立ち上げて12年。
ここに来てやっと組織について少し考えるようになった。
 
設計事務所においてのことだけではないのだけれど、
情報の伝達はとても重要であり
建築における情報の難しさはその普遍性にあるように思う。
 
「当然、こうあるべきもの。」
 
という安易な考えを受け入れず、
その考えを超えるためには、
毎回膨大な数の
 
「どうあるべきか?」
 
という問いが必要になってくる。
 
 
デザインが出来なくても
情報の伝達能力が高く、
普遍性を検証する能力があれば
美しくなくとも
いい建築を作れるかもしれない、
と、思ったりもした。
 
つづく、、、
 
0623-西大寺の家
岡山市「西大寺の家」

時間軸

 
昨日、5年前にお引渡しした
高知のクライアントと岡山で久しぶりの食事。
 
中庭を見下ろしながら
7時間も一人飲みを楽しんでいるらしく
それを聞いただけで、
家づくりのお手伝いをして良かったなぁと嬉しくなる。
 
引渡し前にクライアントとこっそり現場に入って
同じように中庭を見下ろしながら
お酒を交わしたことを思い出した。
 
 
久しぶりの人に会う場合、
その間隔が大きいほど、
話題や変化も大きくなる。
 
何ヶ月ぶりとか、
何年後にはなど、
今の状況を理解するために
時間軸を相対的に扱い、
比較して今を判断するのだろう。
 
相対的なものをよりどころとしてそのものを理解する。
 
それは空間と同じである。
 
そして、5年前中庭を見下ろしながらお酒を交わした空間に
タイムスリップした。
 
§
 
共に遅くまで飲んだにもかかわらず
写真は、クライアントが朝起きて
岡山城周辺をジョギングしながら撮った写真だそうだ。
 
岡山の良さと、クライアントの底力を
改めて知らされた写真である。

小さな家もいいもんだ

先日は、
「少し小さな家」のお引渡しと、
「もう少し小さな家」の設計契約でした。
 
それぞれの床面積は
24坪と20坪。
 
 
依頼主はもちろん、
建てる場所、
敷地の大きさや形状、
要望などは違えども
共通して言えるのは
「共生の原理」
それは
「自然と人間」
「内と外」
「光と闇」
などなど、、、
 
 
「ツルツルピカピカはダメです。仕上げは前からそこにあった感じで。」
「個室は要りません。適当にベッドを置きます。」
「開放的に。外から見えてもいいです。目が合った時は手を振ります。」
 
 
依頼主が設計者よりもよほど乗りやすく
また勝手な想像力をたくましくしてしまう場合は、
設計者はただただ大人しく
ニコニコしていればいいのである。
 
そして時に、
それはチョッとやり過ぎじゃありませんか?
なんてうつむき加減につぶやいて
うれしさをかみ殺していればいいのである。
 
0527-小さな家

可愛くも、しつこい病原体

「高松町の家」
 
写真家の野村さんから
先日撮影した桜の夕景の写真が
送られてきました。
 
 
ここ1、2ヶ月間、
咳に悩まされている。
 
「風邪ですか?」
「花粉症ですか?」
 
って聞かれる度に言葉が詰まり、
つい小さな声で
 
「マイコプラズマって知ってますか、、、
そうです。数年前に流行った、、、
肺炎ではないのですが、、、」
 
と、申し訳なさそうに、、、
 
診察してもらった先生の気持ちも
わからないでもないのだけれど、
何かはっきりと言えない症状であることだけは、
はっきりと言える。
 
 
この可愛くも、
時代を象徴するようなネーミングとは裏腹に
しつこさと気まぐれさを併せ持つ病原体は
今もなお、
ボクを苦しめている。

廿日市の現場

足場が外れたら外構工事に入ります。
 
 
「3日から足場を外します。」
現場監督から連絡があり
ゴールデンウィークの初日は広島・廿日市の現場へと向かう。
 
幾度となく渋滞に巻き込まれながらも
やっとの思いで現場に着く。
 
世の中はゴールデンウィーク。
 
休みって何なのか。
 
考えてみれば連日遊んでいるようなものなんだ、
と思うしかない。
 
 
廿日市の現場からは、晴れ渡った瀬戸内海の島々が見え
さらには厳島神社が見えたとき、
 
人間が意を決して自分を捨てて他者のために生きようとした時に、
空海が弥山を開基したように
 
ごくごく自然に建築という行いを
思い描いてしまう性まで考えてしまうのだろう。
 
0503廿日市-02
夕日が影を落とす。
 
0503廿日市-03
外壁の仕上げ。完成されているけど完成されてない感じがいい。
 
0503廿日市-04
さっそく入居者が、、、

いくつかの計画案

囲まれた場所に建つ家
 
ここ数ヶ月、プレゼンテーションが続く中、
実態としての建築や計画していると、
大事に育て、力づけようとしてきた夢想が
現実の力に抗いきれずに、
ボロボロに崩れ去って
霧散してしまいそうな体験を度々してきた。
 
もちろん崩れ落ちてばかりではいけない。
 
内からの意思も必要である。
 
他者との戦闘能力は必須なものであるけれど、
やはりお互い内なるものがなければ何もスタートしない。
 
崩れても尚、根気強く続けていられるのは、
その内なるものが
時に他者との遭遇から生み出され、
発酵されるからなんだと思う。
 
また発酵されるいくつかの大事なものが動き出す。
 
cb-01
小さな家
 
ymsk-01
幹線道路に建つ美容室
 
sgw-01
変形地に建つ平屋の家
 
ksk-01
角地に建つ家
 
kn-01
細長い敷地に建つ家