↑ 香川「高松の家」
大きな屋根の上からの風景
↑ 香川「高松の家」
力強い3本の化粧柱は
青いベールに包まれたまま。
古典的な考え方として、
「そのものらしいカタチが美しい」
という考え方があります。
木なら木らしく
圧縮に抵抗するように使うとか、
屋根なら屋根らしく
包み込むような形をしていることが
美しいという考え方です。
そんなことを考える機会が多いです。
ルイス・カーンや
ヤコブセンのデザインの中にも
そのような考え方を強く感じます。
カーンのように
無垢の木でまっすぐ育ったような木を使って
家具を作るというのは非常に贅沢なことです。
ヤコブセンの椅子で使われる合板からの可能な形も
合板らしい形態です。
その椅子には地域の「らしさ」と
素材の「らしさ」を読み取ることが出来ます。
人間も「らしさ」を感じる人は
どことなく美しいです。
月別アーカイブ: 2013年11月
始まりと終わり
↑ これは小3の娘が学校で作った
「タイムカプセル」
我が子ながらユーモラスな作品。
でもどこかミステリアスで、
しかも不安定。
奇妙なバランスで置かれている。
私の中の「タイムカプセル」というイメージは、
明るい未来があるようで、
実は世界の終わりの方が強い。
世界の終わりというものは、
いつも人を強く惹きつける。
怖いけど見たい。
いや、でも見たくないかも。
自分とその世界の間には
矛盾が生まれる、
そんなイメージ、そんな世界である。
この「タイムカプセル」の中には
10年後の自分に宛てた手紙が入ってるらしい。
「今あるような見せかけの世界は滅びちゃうよ。
その時残るのは、日々増え続けていく立派な建物なんかじゃなく、
チープで子供だましなおもちゃにすぎないんだよ。」
そんな手紙が入っているかのような
「タイムカプセル」である。
そしてその手紙に付け加えるとしたら、
「その後にやって来るのは、
かつて過ごした村のように自然が美しく、
全てが適度に控えめに保たれている世界である。
それは終わりであると同時に始まりである。」
と。
ここにはないどこか
↑ 米子の打合せの帰りの風景
久しぶりに美しい曇り空を見た。
建築ではなく、
しんとした大気を
まず先に感じてしまうような世界。
社会の煩雑さや目先の利害に惑わされず、
もっと遠くを見つめ
棲むものを静かに奮い立たせてくれる、
そんな場所が出来たらいいな。
3本の柱
コートハウス
↑ 「粒江の家」模型
住宅という日々の生活を送る
日常空間の中にある中庭。
それは囲われた安心感と、
外部である不安感が刺激として
調和されている半外部空間になる。
そこは内部では得られない刺激、
光、風、匂い、
木々の擦れ合う音、
鳥の声などの中で
テーブルを囲み、
友達が集まり、
一緒に食事や会話を楽しんだり出来る
生活をより楽しく出来る+αの一つです。
ワープする異空間
↑ 西予市明浜町。
岡山から4時間弱。
この風景を見ると癒される。
私はとりあえず岡山県の住人である。
実家は広島だけど
もうすでに人生の半分は岡山に住んでいる。
いっぽう仕事の方は、
おかげさまで
中四国のあちらこちらで
仕事をさせていただいている。
わが赴くところと言えば、
岡山はもちろんのこと、
山陰だったり
高知や高松、徳島や西予を
ウロウロしている。
異空間をワープする超人のようであろうが、
辺境の地に立つたびに、
異空間をワープした感じというよりは
共鳴するものを感じている。
「そんなことはあるはずがない!」
人はきっとこう叫ぶに決まっている。
でも少しも慌てる様子もなく
内心ではこのヤローと思いつつ、
しかしいっさい表情に表さず、
わが思うところを
展開し伝えていこうと思う。
↑ 四万十市の庫裏の解体が始まった。
「屋島の家」地鎮祭
先日は香川「屋島の家」の地鎮祭。
かつては島だったこの地は、
長い進化のプロセスを経て、
今ある姿
陸続きになった。
計画地の北には
源平合戦で知られる屋島、
南には高松市街が一望出来る
高台にある。
この自然と人工物の狭間に
位置するこの計画地には、
進化してきた
歴史の集積物がある。
歴史だけでなく
地理、地質の特性をはじめとして
人間が付けた様々な痕跡までもが
記憶に刻み込まれ
さらに保存されていく。
如何なる縁なのか。
偶然、何ものかに導かれるように
この地への建築が始まろうとしている。