仕事納めはCSHの庭の打合せ。
そのままCSHのクライアントと、
森の大屋根のクライアントも合流して
夜を共に過ごし
ここで2度目の朝を迎える。
気がついてみたら、
今年もあとわずかになり
今年の目標だった建築と人と自然の関係は
あいかわらず永遠の課題のままで、
一年を振り返るとたくさんの出会いがあり
様々な問題に
直面していたように思う。
何かが生み出されるために
必要なものは何だろう。
どんなにささやかなことであっても
「何かを生み出す」ことを職業とするということは、
「他者と異なる」ことの不安と覚悟とは表裏一体だ。
どこにも寄りかかれる場所はない。
だれも助けてはくれない。
初めのピュアな志をくじかれる機会は
ほとんど毎日のように訪れる。
他の人たちが
確かな道を進んでいるように見える中で、
自分だけが
取り残されていくような気持ちに
日々つきあわされる。
けれどもそう思いながらも、
当たり前の日常や
常識の中で身体で感じたり、
疑問に思ったりすることで、
いつか不意に
何かが生まれているものなのだと
思うこともある。
土はなんと自由なのか。
鉄はなんと重たいものか。
野芝はなんと優しいのだ。
朝はなんと清々しいのだ。
夜はこんなに闇だったのか。
日常の常識や知識が
身体に体当たりしてくる。
頭だけでは考えられない。
手が考え、足が考える。
素直に身体が答えを出す。
何かを生み出すと同時に
身体が答えを出し、
その答えが少しずつカタチになった反面、
振り返ってみると
一人で突っ走っていたような、
てんでんばらばらな一年でもあった。
来年は想いを共有出来る人たちと、
同じ方向を向いて
一緒に走っていくことがさらに
「何かを生み出す」ことに
つながっていくのではないだろうか、、、
それではみなさん、良いお年を!
月別アーカイブ: 2016年12月
美しい風景
特別な景色でなくても
建物が建ってない風景が
美しいなぁって思うことがある。
そんな時どうやって
建物を風景に溶け込ますかを
必死になって考える。
一方で、
断固として自分のデザインを
主張したいとも考えたりする。
余程のことがない限り
特別に美しい環境に建築することもない。
だからほとんどが
美しい景色をつくろうと
考えるようになる。
屋根のデザインも
その一つではないかと思う。
徳島市の「勝占の家」は
背景の連なる山々と屋根を連続させた。
倉敷市児島の「味野の家」は
軒を深く低くすることで
入り組んだ町に
空を取り込む風景をつくった。
餅まきをすることで
たくさんの笑顔があり、
人がいきいきとし、
かつての風景を
取り戻すことも出来たんじゃないかと思う。
草屋根の家のクライアントと
味野の家のクライアントが
楽しそうに話している風景を見るだけで
幸せな気持ちになった。
草屋根の家のTさん、
遠いところありがとうございました。
味野の家のOさん、
最近あまりすることのない餅まきを
経験させていただき
ありがとうございました。
触れる
先日の総社の家、太田の家の
オープンハウスでのたくさんのご来場、
ありがとうございました。
この家もそうですが
設計をしながら考えるとき、
全体と部分の関係は
注意深く検討されなければならない。
触れるという意味は
そのほとんどの場合が触れることを示すけど、
心に触れるという言葉があるように、
何か大切な行為であり気持ちなのでしょう。
手・足・体などが触れる部分は
人に伝えるモノとしての
手掛かりなのかもしれない。
だから体なんだと思う。
手を動かさないといけない。
体を動かさないといけない。
夢中になって
体全部を使って触れ、
心に触れる。
言葉は大事だけど
口だけでは心に触れないんだと思うことが
よくある。