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建築の神様

「トイレには神様がいる。」
あるクライアントがこうつぶやいて以来時々こんなふうに思うことがある。
 
「建築の神様」みたいなのがいて
僕はその神様に愛されているかな、、、と。
 
たくさんのプロフェッションに関わる人々と同じように
僕もまた、自分の職能に忠実でありたいといつも思っている。
 
もちろんすべてを完璧にできているわけではない。
 
でも、少なくとも自分の出来ることを十分にやりきれていれば、
そのときにはきっと、「建築の神様」に
少しは愛されているかもしれない。
 
かつてルイス・カーンという
それこそ「建築の神様」のような建築家が
すでに亡くなったル・コルビュジェという
建築の巨匠に向かって、語りかけたことがあった。
 
「コルビュジェさん、私の建築はどうでしょうか?」と。
 
もちろんカーンには足もとにも及ばないけど
僕もこんなふうに聞いてみたくなる。
 
建築の神様へ、
僕はどうでしょう?
少しは頑張ってますか?

仕事始め

山の中を散歩。
 

年末年始はゆっくりさせてもらい、心身共にエネルギーを注入しました。
 
時々はあってもいいな。
こういう浮世離れした生活が。
 
ムスメがタカラジェンヌになろうとしているのは、ここだけの話です。
 
明日1月6日から仕事始めです。

 
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宝塚歌劇、創立100周年
気がつくと宝塚大劇場の中に、、、

 
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あけましておめでとうございます

沖縄を始めとする熱帯地方に分布する「ガジュマル」
 

このガジュマルの面白いところは不思議な幹の形です。
 
一般的に幹は自身を支えるために先細りに伸びていくのだけれども
この木はそんな考えを全く無視した幹の形をしています。
 
ガジュマルは幹や枝から髭状の気根を出し、
地中に入ると支柱根となるらしい。
 
つまり幹には自身を支える役割よりも
水分や養分を吸収する役割の方が大きいのである。
 
1ヶ所に根を下ろすよりも少しでも広い範囲で
栄養分を集めようとした結果が
あの神秘的な形状となるのだと思います。
 
昨年は独立して10年。
 
いろんな場所でたくさんの出会いがあり、
多くの方の協力のもと、少しずつですが形にもなり、
今日まで続けることが出来たのではないかと思います。
 
10年という年月は人間にとってみれば
大きいのかもしれませんが、
建築の寿命からすればまだまだ余すところが多いですし、
植物からしてみればこれからだと思います。
 
常に新しい意識を持っていなければ
それらの流れに取り残されてしまう。
 
だからと言って新しいモノばかり追っかけても
建築という長いスパンを考えると安易にデザインも出来ない。
 
そういった意味で、今自分が何を想い
何をつくっていくかということに
長い目で取り組んでいこうと思います。
 
今年もよろしくお願いします。
 
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「名護市庁舎」43年前の建物。
つまり私が生まれた年に竣工した建築物。設計は象設計集団

COLOR

夢のあらかたはモノクロームの世界である。
 
でも時にカラーに見える時があって
ハッと目が覚める。
 
そこは多分現実にある色でなく
どこにもない微妙で
優しい色だったような気がする。
 
 
時に自然の色に
感動しなくなることがある。
 
こちらの感受性が
汚れてるせいなのかもしれないけど、
それだけではないと思う。
 
自然の方も疲れているからだ。
 
もう少し緑らしい緑を出してくれよ、
なんて排気ガスにあえいでいる樹木の肩を
たたいてやりたくなる。
 
川の色も
海の色も
空の色も
 
みんな事情を抱え込んでいるのだろう、、、
 
そのものらしい色に出会うために、
はたまた汚れた感受性を洗い流すかのように
沖縄へ向かった。
 
しかし、
沖縄の街の中の植樹たちも
排気ガスにあえいでいた。

設計図

↑ 香川「屋島の家」配筋検査
 
設計図を書くときには、
内容が伝わるように書かなければならない。
 
必要充分に書くことはなかなか難しい。
 
 
寸法ひとつにとっても、
書きすぎると
図面がごちゃごちゃになって読みにくいし、
書いてないと
設計図として成立しない。
 
施工者が知りたいと思う内容を
適切な位置に適切な詳しさで書く。
 
読む相手は誰なのか、
どんなことをしているのか、
よくわかってないと見当違いの内容を
伝えてしまうことになる。
 
熟達した人の図面は、
内容の量とはうらはらに、
思いのほかスッキリしている。

そのものらしいカタチ

↑ 香川「高松の家」
 大きな屋根の上からの風景
 
 
1126-高松町棟上02
↑ 香川「高松の家」
 力強い3本の化粧柱は
 青いベールに包まれたまま。
 
 
古典的な考え方として、
「そのものらしいカタチが美しい」
という考え方があります。
 
木なら木らしく
圧縮に抵抗するように使うとか、
屋根なら屋根らしく
包み込むような形をしていることが
美しいという考え方です。
 
 
そんなことを考える機会が多いです。
 
ルイス・カーンや
ヤコブセンのデザインの中にも
そのような考え方を強く感じます。
 
カーンのように
無垢の木でまっすぐ育ったような木を使って
家具を作るというのは非常に贅沢なことです。
 
ヤコブセンの椅子で使われる合板からの可能な形も
合板らしい形態です。
 
その椅子には地域の「らしさ」と
素材の「らしさ」を読み取ることが出来ます。
 
人間も「らしさ」を感じる人は
どことなく美しいです。

始まりと終わり

↑ これは小3の娘が学校で作った
 「タイムカプセル」
 
 
我が子ながらユーモラスな作品。
 
でもどこかミステリアスで、
しかも不安定。
 
奇妙なバランスで置かれている。
 
 
 
私の中の「タイムカプセル」というイメージは、
明るい未来があるようで、
実は世界の終わりの方が強い。
 
 
世界の終わりというものは、
いつも人を強く惹きつける。
 
怖いけど見たい。
 
いや、でも見たくないかも。
 
自分とその世界の間には
矛盾が生まれる、
そんなイメージ、そんな世界である。
 
この「タイムカプセル」の中には
10年後の自分に宛てた手紙が入ってるらしい。
 
「今あるような見せかけの世界は滅びちゃうよ。
その時残るのは、日々増え続けていく立派な建物なんかじゃなく、
チープで子供だましなおもちゃにすぎないんだよ。」
 
そんな手紙が入っているかのような
「タイムカプセル」である。
 
そしてその手紙に付け加えるとしたら、
 
「その後にやって来るのは、
かつて過ごした村のように自然が美しく、
全てが適度に控えめに保たれている世界である。
 
それは終わりであると同時に始まりである。」
 
と。

ここにはないどこか

↑ 米子の打合せの帰りの風景
 
 
久しぶりに美しい曇り空を見た。
 
 
建築ではなく、
しんとした大気を
まず先に感じてしまうような世界。
 
社会の煩雑さや目先の利害に惑わされず、
もっと遠くを見つめ
棲むものを静かに奮い立たせてくれる、
そんな場所が出来たらいいな。

3本の柱

↑ 山一木材の
 KITOKURASU Cafeで打ち合わせ。
 
 
1111高松の家01
↑ 「高松の家」に使う
3本のうちの2本の化粧柱。
 
 
あんまり、ピカピカで
キレイなものは怪しいので、
わざと曲げたり削ったりして
いささかの抵抗をする。
 
 
いくつか現場が動いていると
色々と課題は山積みされているのだけれど、
「高松の家」に立つ柱が
良い仕上がりに近づいているのを確認出来て、
元気が出る。
 
我ながらバカだなぁ~って思うけど、
そのために生きているんだから仕方ない。

ワープする異空間

↑ 西予市明浜町。
 岡山から4時間弱。
 この風景を見ると癒される。
 
 
私はとりあえず岡山県の住人である。
 
実家は広島だけど
もうすでに人生の半分は岡山に住んでいる。
 
いっぽう仕事の方は、
おかげさまで
中四国のあちらこちらで
仕事をさせていただいている。
 
わが赴くところと言えば、
岡山はもちろんのこと、
山陰だったり
高知や高松、徳島や西予を
ウロウロしている。
 
異空間をワープする超人のようであろうが、
辺境の地に立つたびに、
異空間をワープした感じというよりは
共鳴するものを感じている。
 
「そんなことはあるはずがない!」
 
人はきっとこう叫ぶに決まっている。
 
でも少しも慌てる様子もなく
内心ではこのヤローと思いつつ、
しかしいっさい表情に表さず、
わが思うところを
展開し伝えていこうと思う。
 
1106-菩提寺
↑ 四万十市の庫裏の解体が始まった。