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屋上○○計画

久しぶりに事務所の屋上に上がる。
 
この灼熱の中
フツフツと沸騰し始めるものを感じる。
 
 
屋上緑化計画はいまだ進行中なのだけれど、
この場所を使うことに関して言えば、
緑化だけが目的ではない。
 
それらを通じて何かを発信していく場所の
一つであるとするなら
これからの家づくりと錆びれかけた街へ投げる
一つの疑問符なのだと思っている。
 
これをやってみるからこそ、
今の街づくり、家づくりが砂上の楼閣であることを
伝えることが出来るのではないだろうか。
 
みんなそれはウソなんだよと、
王様は裸だと叫んだ子供のように、、、
 
 
限られた時間の中で
まずは動いてみますか?
 
平野。

技術と根気

先日は今治市『玉川の家』の棟上げ。
 
規則性を持ったヴォリュームが
機能的に反復され、
それぞれが肩を寄せ合い、
広い敷地の中で
凛とした骨格が現れる。
 
 
暑い日の中での棟上げ。
 
建築を作る上で
技術と根気というのは大切だなぁ、
としみじみ思う。
 
豪快さと繊細さ
おおらかさと正確さ
単純さと複雑さ
 
同時に存在しなくてはならない
相反する要素を紡ぎ合わせられるのは
技術と根気の力なのだ。
 
汗だくになっている大工さんをみていつも思う。
 
 
0808-玉川の家02
5間(9.1M)豪快に飛ばしている梁。
 
 
0808-高松番町の家
『高松番町の家』の地鎮祭。
氏神さまと打ち合わせ中の神主さん。

三丁目の棟上げ

先日は「(仮称)西大寺の家」の棟上げでした。
 
 
ここに至るまでのプロセスはとても長く、
もちろん建て主にとっては一生の買い物なので
吟味に吟味を重ねてのプロセスでもありました。
 
ボクの事務所に問い合わせをしてくれる人たちは、
あらかじめ雑誌やホームページなどのメディアや、
ハウスメーカーや工務店の展示場などから
なんらかの情報を得ている場合が多いのです。
 
ボクもホームページなどで図面では表現しきれない考え事や
身の回りに起こることについてぼんやりと
出来る限り包み隠さず
徒然に綴っていたりします。
 
そう言ったことから
あ、こいつなら頼んでもいいか、
と思って依頼に来てくださるのだと思います。
 
こいつには自分をさらけ出してもいいか、
と思える人に出会うことは大事なことです。
 
人間どうしだから相性もあります。
 
ダメだと思ったら早くそこから逃げるのも
大事なことだと思います。
 
無理やり続けると相手に対して
大したことのないことで疑念や疑いが生まれたり
腹の探り合いをして、
変な駆け引きが生じてしまったりすると思います。
 
ボクは気が小さいせいか、
そういう関係がすごく苦手です。
 
お互いかっこつけずバカみたいに正直にいくことが
一番大切なことだと思っています。
 
正直でいればさまざまなロスがなくなり
結果的にはコストダウンにつながっていくのではないかと
思っています。
 
 
写真は「(仮称)西大寺の家」の階段の一部です。
バカ正直に隠れる部分を見せてしまいました。

かくあらまほし

この場所は、
単なる軒下空間ではなく、
立ち話をしたり、
絵を描いたり、
お酒を飲みながら読書をするような、
親密で心地良い場所である。
 
 
どこかへんてこだけれど、
そこにいる人はそんな風に思っていない。
 
ずっと昔からそこにいるように見える。
人が場所を創造的に使い倒している。
 
さてどう建て替えるか、、、
 
かくあらまほしきことなり。
 
0701-綾川町01

どうあるべきか?

今治市「玉川の家」
 
 
岡山市「西大寺の家」と
今治市「玉川の家」の地鎮祭が
先月末と先週、無事執り行われました。
 
これから出来る限り
リアルタイムでアップしていきます。
 
§
 
事務所を立ち上げて12年。
ここに来てやっと組織について少し考えるようになった。
 
設計事務所においてのことだけではないのだけれど、
情報の伝達はとても重要であり
建築における情報の難しさはその普遍性にあるように思う。
 
「当然、こうあるべきもの。」
 
という安易な考えを受け入れず、
その考えを超えるためには、
毎回膨大な数の
 
「どうあるべきか?」
 
という問いが必要になってくる。
 
 
デザインが出来なくても
情報の伝達能力が高く、
普遍性を検証する能力があれば
美しくなくとも
いい建築を作れるかもしれない、
と、思ったりもした。
 
つづく、、、
 
0623-西大寺の家
岡山市「西大寺の家」

コンソーシアム

 
持ちネタだけで
良いプロジェクトを生み出すのは難しい。
 
そんなときは
知っている奴とプロジェクトに
巻き込まれていくのに限る。
 
このゆるやかな連合にあたっては、
領域の網羅性と拡張可能性、
ミッションの共有性、
チャレンジを恐れない革新性が必要である。
 
異なる環境で別々に構築された知が
プロジェクトの場で出会ったとき、
想定すらしてなかった多様な反応が生成する。
 
この連合が革新的プロジェクトの
基盤になり得るかもしれない。

ほの明るさの処

 
0601-両備G01
↑イベント会場
 
 
先日のイベントでのたくさんのご来場、
ありがとうございました。
 
初めて試みるこの会場は、非都市的な場所で
ワクワクすると同時に、
足をすくませる何かがそこにはあった。
 
庭と呼びうる場所はあるのに表がない。
 
移築された向かいの蕎麦屋が
そうさせているのかもしれないけど、
それがよりいっそう本質的な暗さを偏在させ、
同時にその暗さを砕く明るさを
引き立てるといった場所。
 
民家の生命力を感じながら
日本人の謙虚さも忘れないようにしなければならないと
感じさせられたこの週末。
 
 
民家に滞在しているうちに
ワタクシの中のセンチメンタルな部分が
少し蒸発してくれたように思った。
 
0601-両備G02

時間軸

 
昨日、5年前にお引渡しした
高知のクライアントと岡山で久しぶりの食事。
 
中庭を見下ろしながら
7時間も一人飲みを楽しんでいるらしく
それを聞いただけで、
家づくりのお手伝いをして良かったなぁと嬉しくなる。
 
引渡し前にクライアントとこっそり現場に入って
同じように中庭を見下ろしながら
お酒を交わしたことを思い出した。
 
 
久しぶりの人に会う場合、
その間隔が大きいほど、
話題や変化も大きくなる。
 
何ヶ月ぶりとか、
何年後にはなど、
今の状況を理解するために
時間軸を相対的に扱い、
比較して今を判断するのだろう。
 
相対的なものをよりどころとしてそのものを理解する。
 
それは空間と同じである。
 
そして、5年前中庭を見下ろしながらお酒を交わした空間に
タイムスリップした。
 
§
 
共に遅くまで飲んだにもかかわらず
写真は、クライアントが朝起きて
岡山城周辺をジョギングしながら撮った写真だそうだ。
 
岡山の良さと、クライアントの底力を
改めて知らされた写真である。

小さな家もいいもんだ

先日は、
「少し小さな家」のお引渡しと、
「もう少し小さな家」の設計契約でした。
 
それぞれの床面積は
24坪と20坪。
 
 
依頼主はもちろん、
建てる場所、
敷地の大きさや形状、
要望などは違えども
共通して言えるのは
「共生の原理」
それは
「自然と人間」
「内と外」
「光と闇」
などなど、、、
 
 
「ツルツルピカピカはダメです。仕上げは前からそこにあった感じで。」
「個室は要りません。適当にベッドを置きます。」
「開放的に。外から見えてもいいです。目が合った時は手を振ります。」
 
 
依頼主が設計者よりもよほど乗りやすく
また勝手な想像力をたくましくしてしまう場合は、
設計者はただただ大人しく
ニコニコしていればいいのである。
 
そして時に、
それはチョッとやり過ぎじゃありませんか?
なんてうつむき加減につぶやいて
うれしさをかみ殺していればいいのである。
 
0527-小さな家

可愛くも、しつこい病原体

「高松町の家」
 
写真家の野村さんから
先日撮影した桜の夕景の写真が
送られてきました。
 
 
ここ1、2ヶ月間、
咳に悩まされている。
 
「風邪ですか?」
「花粉症ですか?」
 
って聞かれる度に言葉が詰まり、
つい小さな声で
 
「マイコプラズマって知ってますか、、、
そうです。数年前に流行った、、、
肺炎ではないのですが、、、」
 
と、申し訳なさそうに、、、
 
診察してもらった先生の気持ちも
わからないでもないのだけれど、
何かはっきりと言えない症状であることだけは、
はっきりと言える。
 
 
この可愛くも、
時代を象徴するようなネーミングとは裏腹に
しつこさと気まぐれさを併せ持つ病原体は
今もなお、
ボクを苦しめている。