
津島東の家の足場が外れ、
軒裏を見上げる。
最近はなぜか空理空論好みなところがある。
しかし、ここではそれがない。
しっかりとした現実感と
適度な存在感がある。
他人を威圧することもなく、
はっきりとした何かを持っている。
迷うときもある。
その迷いも楽しんでいる。
一緒に考えていてそれが心地よい。
クライアントのご厚意で
9月にオープンハウスをさせていただくかも、、、


まずそこに立って見ることだ。
立ち尽くして目をみはり、
耳をこらすことだ。
心を白紙にして
事象をそのままに受けとめてみることから出発する。
それから山積みになった問題も乗り越え、
共に目標を目指し形にしていく。
ただかっこいいものを作りたいからとか
人の為にとか言いながら
アブク銭だけ執着し、
富に溢れて私欲のために独走していると、
居場所を失い
これから出来上がっていくそれは
きっと見通しの悪いものになっていくだろう、、、
誰かが言ってた。
「人の為って偽りって書くんだな~」って

美か醜か、
便か不便か、
堅いか脆いかなどを問わず
人間の手が入って生み出された一切の姿を
造形として取り上げるところから
再出発してみよう。
「美醜」「本末」「善悪」「功罪」
といった評価をあげたところで、
いずれも何らかの価値観によって
一方を好ましいもの
他方を好ましくないものと判定する。
ただ建築の設計の上で、
予算的なこと、力学的なこと
施工上のことなどはいいけど
もはや使い勝手とか、
らしさだとか、
さらに造形や色彩などとなると、
主観的なものがかなり入って、
好き嫌いがものさしとなる。

波間すれすれを浮遊していた。
それは魂が母胎にとらえられる
故郷の瀬戸内海を
彷徨している追憶なのか、
父母来生以前の原初の海を
泳いでいたような記憶なのかはわからない。
もしかしたらそれが波間でなく38度線なのかもしれない。
心が楽しい時、
すべてのものは美しく
生き生きとして感じる。
嫌なことがあっても
それを克服する道が見えてくる。
楽しそうにしていると
周囲の人までついつられて
愉快にならずにいられない。
もうろう状態からそんな記憶や感情を
徐々に呼び戻すため、
事務所の近くにある植物を見に行った。

いささか学生としては時の積み重ねを
肩に背負い過ぎていたようにも思う。
流されずによく考えているからこそ、
もう少し自分の道を考えても
いいんじゃないかという、
我ながら妙な情動が湧いてくる。
他人の人生に踏み入って、
その敷かれたレールを
切り換えるデザイン程
難しいことはない。
だから自分でデザインするしかない。

事務所の近くの散り始めた夜桜
生きていくことは大変なことだ。
「世事わが事に非ず」に
徹底して生きられるためには、
よほどの楽観が必要である。
しかしなかなかそれが出来ないから
悩むのかもしれない。
人々が多様化、情報化の方向をとっているときは、
一人ひとりが何にこだわっているのかを知るだけでも大変な上に、
仮にそれがわかっても、
それを満足させる方法を見つけるのに苦労し、
またやっとそれを見つけたとしても
果たしてその人がその場にいてくれないかもしれず、
その他の矛盾した欲望の人の方が来てしまうかもしれず、
それを全部満たすことの難しさを感じる。
「年々や桜を肥やす花の塵」芭蕉