
「屋島の家」↑
絵葉書のような夕暮れとその前を立ちはだかる無人の社宅。
オープンハウスは月末かな、、、
風景というよりもその時代、その世界の価値観や美意識、
生活の愉しみや悩みはどんなものだったんだろう、と想像してしまう。
染み付いた空気の余韻を味わいながら、
描かれているわずかな風景をもとに
描かれていない多くのことを想う優しさも必要かな。

「屋島の家」↑
絵葉書のような夕暮れとその前を立ちはだかる無人の社宅。
オープンハウスは月末かな、、、
風景というよりもその時代、その世界の価値観や美意識、
生活の愉しみや悩みはどんなものだったんだろう、と想像してしまう。
染み付いた空気の余韻を味わいながら、
描かれているわずかな風景をもとに
描かれていない多くのことを想う優しさも必要かな。

↑「高松町の家」足場が外れ全貌が露になる。
クライアントのご厚意で、予約制ではありますがオープンハウスを行います。
ご興味のある方はメールにてご連絡ください。
場所:香川県高松市内
日時:4/12(土)、13(日)
連絡先:info@k-tenk.com
張りつめていた建築が浅春の陽気でほどけ始める。
私のこれまでのいくつかの建築と違うものがあるとすれば
形としては単純明快で素材として複雑なニュアンスをもたらせている。
形のない形への具体的方法は素材自体の装飾性にあるのかもしれない。
そして、この家のご家族を象徴する3本の木は
何よりの力づけになり
天蓋へと伸び大きな屋根を支え
楽しめる居場所になるだろう。

「屋島の家」
この街を別の視点で、別の角度から、
そして別のスピードや、カメラみたいに
別の明るさのレンズで眺めたら、どうか。
つまり、普段使っているカメラとは違うファインダーで眺め直したら、どうなんだろう、、、
そんな想いから遠くの山並みや町並み、
森や空のようすを建築を使ってはっきりと見せたかった。
遠くを眺める装置になったらと考えたのも確かだけど、
建築も自身も内外を見つめられる。
そんなことからも何かを考えるきっかけになってくれたらなぁと思っている。
是非足を運んでいただき、ご自身の眼球を内外に向けて頂けたらと思います。
クライアントのご厚意で予約制ではありますが
香川県「高松町の家」と「屋島の家」
徳島県「石井町の家」
のオープンハウスを4月にそれぞれ行います。
日程は決まり次第、後日ご連絡いたします。
ご予約はメールにてお問い合わせください。
場所についてはこちらからご案内いたします。

「高松町の家」
生まれながらの指導者なんているわけでもないが、
どう考えても社長や会長といった言葉は
ふさわしくない人物がいるものだ。
いわゆる職人たちはなかなかまとまりにくい連中である。
それぞれが手に職を持っているから自主独立の気概がある。
勤め人たち宮仕えたちとは反対に群れたがらない。
だからこそ「親方」というのはそれなりの風格と貫禄を持っている。
そりゃそうだろう。
とかく群れたがらない職人たちをまとめていこうというのだから、
余程の気力と器が必要になる。
そんな人がいたらお目にかかりたいものだ、
でも現代にはいないだろうなと思ってたけど、いた。
丸亀市の左官職人秦さんの紹介でお会い出来た。
まさに「現代の職人たちのドン」
と呼ぶにふさわしい人物であってほかの何者でもない。
淡路島の左官職人 植田俊彦さんである。
建築の工業化により左官職はうとんじられ
ジリジリと後退につぐ後退を続けてきた。
そんな中、若い職人たちを引き連れ
古いやり方も残し、新しいやり方も時代にあわせながら
楽しみながらやっている後ろ姿に左官職の未来を感じた。

「どこにもない場所=理想郷」
というのはフーリエやブルーノ・タウトらの建築を指すときによく使われるが、
固定化したしたイメージを持つからこそ、
そういうくくりにしてしまうことで、
個々の特徴がかえって見えづらくなっている。
理想の社会を描くことは
建築家の仕事であり本能でもあると思うけど、
ユートピアは与えられるものではなくて、
ふとしたときにささやかに感じては消えてゆく、瞬きのような自覚だと思う。
そんなフワフワしたまま設計を始めるべきか否か。
自分はいまこの計画に自由に関わっていると思えることや、
制限とすら思っていなかった制限にある日気がついて、
そこから解放されてゆく喜びを感じることが出来ることを期待するしかない。

「トイレには神様がいる。」
あるクライアントがこうつぶやいて以来時々こんなふうに思うことがある。
「建築の神様」みたいなのがいて
僕はその神様に愛されているかな、、、と。
たくさんのプロフェッションに関わる人々と同じように
僕もまた、自分の職能に忠実でありたいといつも思っている。
もちろんすべてを完璧にできているわけではない。
でも、少なくとも自分の出来ることを十分にやりきれていれば、
そのときにはきっと、「建築の神様」に
少しは愛されているかもしれない。
かつてルイス・カーンという
それこそ「建築の神様」のような建築家が
すでに亡くなったル・コルビュジェという
建築の巨匠に向かって、語りかけたことがあった。
「コルビュジェさん、私の建築はどうでしょうか?」と。
もちろんカーンには足もとにも及ばないけど
僕もこんなふうに聞いてみたくなる。
建築の神様へ、
僕はどうでしょう?
少しは頑張ってますか?

↑ 香川「屋島の家」配筋検査
設計図を書くときには、
内容が伝わるように書かなければならない。
必要充分に書くことはなかなか難しい。
寸法ひとつにとっても、
書きすぎると
図面がごちゃごちゃになって読みにくいし、
書いてないと
設計図として成立しない。
施工者が知りたいと思う内容を
適切な位置に適切な詳しさで書く。
読む相手は誰なのか、
どんなことをしているのか、
よくわかってないと見当違いの内容を
伝えてしまうことになる。
熟達した人の図面は、
内容の量とはうらはらに、
思いのほかスッキリしている。

↑ 香川「高松の家」
大きな屋根の上からの風景

↑ 香川「高松の家」
力強い3本の化粧柱は
青いベールに包まれたまま。
古典的な考え方として、
「そのものらしいカタチが美しい」
という考え方があります。
木なら木らしく
圧縮に抵抗するように使うとか、
屋根なら屋根らしく
包み込むような形をしていることが
美しいという考え方です。
そんなことを考える機会が多いです。
ルイス・カーンや
ヤコブセンのデザインの中にも
そのような考え方を強く感じます。
カーンのように
無垢の木でまっすぐ育ったような木を使って
家具を作るというのは非常に贅沢なことです。
ヤコブセンの椅子で使われる合板からの可能な形も
合板らしい形態です。
その椅子には地域の「らしさ」と
素材の「らしさ」を読み取ることが出来ます。
人間も「らしさ」を感じる人は
どことなく美しいです。

↑ 「粒江の家」模型
住宅という日々の生活を送る
日常空間の中にある中庭。
それは囲われた安心感と、
外部である不安感が刺激として
調和されている半外部空間になる。
そこは内部では得られない刺激、
光、風、匂い、
木々の擦れ合う音、
鳥の声などの中で
テーブルを囲み、
友達が集まり、
一緒に食事や会話を楽しんだり出来る
生活をより楽しく出来る+αの一つです。