ケンチクノコト」カテゴリーアーカイブ

いくつかの報告 vol.2

 
休みの日も出て仕事を続けたり、
現場や打合せに同行したり、
他愛もないもので
コツコツやっているのを見たりすると、
ドタバタの毎日の中、
私もまぁもう少し頑張ってみるか、と
つぶやいたりしてしまう。
 
建築に興味を持ち始めてるならと
広島で行われた「大野の家」の地鎮祭の帰り、
福山の神勝寺に立ち寄る。
 
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いくつかの報告 vol.1

「小屋と家」
 
粉雪が舞う地鎮祭を終え、
儺追風が去り春風とともに
着工を待つ。
 
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「土田の家」
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いよいよ着工。
これから地中に眠っている
岩盤との戦いが始まる。
 

春分の候

 
今年ももう3月が終わろうとしている。
 
凍りついたブログは春寒の緩みで次第に解け始め、
ムスメの小学校卒業とともに
新たな気持ちでスタートする。
 
 
キレギレの時間と
バラバラな空間に
ドタバタな毎日。
 
小さいまとまりをつくりながら、
大きいネットワークをつくっていく。
 
これらをつなぐものが出来ないと、
本来の意味で一人一人の人生の時間を
大切にするようなものに
なっていかないような気がします。
 
 
バラバラな空間と
切りとられた時間の組み合わせの中で
生きているような世界から、
自分自身を大切にしていき
そして誰もがそれが出来るような体制に
していかないといけないなぁ
と、ドタバタな毎日の中で思いました。

あけましておめでとうございます。

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
 
 
§
 
 
そこには建築も都市も敷地も要望もない。
あるのは子供の頃、
創造していたコト、モノ、バショを
表現すること。
 
そのわずかな要求の中で、
どのようなカタチ、記憶の片隅の中で
自主的なエネルギーを
誘発していくかが問題である。
 
それらを解決するのは記憶の連続なのか?
 
それとも思いつきの連続なのか?
 
それらの断片をなめらかに連続させていくのが、
直感的理論というか、
図形判断への気持ちの中の
心棒みたいなものなのだ。
 
 
§
 
 
ちょうど全体を見ようと
高台に上がってブランコを漕いでみた。
 
まだ向こうがあると空へ鳥のように飛んでみた。
 
空高く飛んでみたら
自分のいた場所はどこかへ消えていた。
 
考え直してみたら、
一人の時間が持てる
関心の数は限られており、
習い覚える量も限界内で、
判断できる範囲も
年齢とともに少なくなる。
 
今年は有限の世界から
もう一度見直す必要がある。
 
もしかしたらそれは
つくらないことこそ創造の世界であり、
有限の世界なのかもしれない。
 
 
2月のカレンダーにて

何かを生み出す

仕事納めはCSHの庭の打合せ。
 
そのままCSHのクライアントと、
森の大屋根のクライアントも合流して
夜を共に過ごし
ここで2度目の朝を迎える。
 
 
気がついてみたら、
今年もあとわずかになり
今年の目標だった建築と人と自然の関係は
あいかわらず永遠の課題のままで、
一年を振り返るとたくさんの出会いがあり
様々な問題に
直面していたように思う。
 
 
何かが生み出されるために
必要なものは何だろう。
 
どんなにささやかなことであっても
「何かを生み出す」ことを職業とするということは、
「他者と異なる」ことの不安と覚悟とは表裏一体だ。
 
どこにも寄りかかれる場所はない。
 
だれも助けてはくれない。
 
初めのピュアな志をくじかれる機会は
ほとんど毎日のように訪れる。
 
他の人たちが
確かな道を進んでいるように見える中で、
自分だけが
取り残されていくような気持ちに
日々つきあわされる。
 
けれどもそう思いながらも、
当たり前の日常や
常識の中で身体で感じたり、
疑問に思ったりすることで、
いつか不意に
何かが生まれているものなのだと
思うこともある。
 
 
土はなんと自由なのか。
鉄はなんと重たいものか。
野芝はなんと優しいのだ。
朝はなんと清々しいのだ。
夜はこんなに闇だったのか。
 
日常の常識や知識が
身体に体当たりしてくる。
 
頭だけでは考えられない。
 
手が考え、足が考える。
 
素直に身体が答えを出す。
 
 
何かを生み出すと同時に
身体が答えを出し、
その答えが少しずつカタチになった反面、
振り返ってみると
一人で突っ走っていたような、
てんでんばらばらな一年でもあった。
 
来年は想いを共有出来る人たちと、
同じ方向を向いて
一緒に走っていくことがさらに
「何かを生み出す」ことに
つながっていくのではないだろうか、、、
 
 
それではみなさん、良いお年を!

触れる

先日の総社の家、太田の家の
オープンハウスでのたくさんのご来場、
ありがとうございました。
 
 
この家もそうですが
設計をしながら考えるとき、
全体と部分の関係は
注意深く検討されなければならない。
 
触れるという意味は
そのほとんどの場合が触れることを示すけど、
心に触れるという言葉があるように、
何か大切な行為であり気持ちなのでしょう。
 
 
手・足・体などが触れる部分は
人に伝えるモノとしての
手掛かりなのかもしれない。
 
だから体なんだと思う。
 
手を動かさないといけない。
 
体を動かさないといけない。
 
夢中になって
体全部を使って触れ、
心に触れる。
 
言葉は大事だけど
口だけでは心に触れないんだと思うことが
よくある。

「総社の家」オープンハウス

 
素材とかたちのあいだには
ふさわしい関係がある。
 
建物をつくるときに
その関係が良いものと良くないものでは
空間の質も大きく異なってくる。
 
そこには緊密な関係がある。
 
建築の力は
この関係に宿る部分が
大きいのだと思う。
 
 
11月19日、20日
「総社の家」オープンハウスです。

小さな町の小さな山のふもとの小さな公園のそばに建つ大きな遊具のような洞穴

 
先日のオープンハウスでの沢山のご来場、
そして貴重な時間をつくっていただいた
クライアントのTさん、
ありがとうございました。
 
また遅くまで作業してくれた工務店のTさん、
お疲れさまでした。
 
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この世の中には異人とも呼ぶべき人が確かにいる。
この家のクライアントもその一人である。
もちろん工務店のTさんもその中に入る一人かもしれない。
 
この建築はその人物たちの異人ぶりを
そのまま形にしたとも言える。
 
 
 
その人物、その形、その生活を主体として考えるならば、
家はかくのごとくすでに解体している。
 
自らの思考の中で。
 
住むことを主体とするならば、
住む場所は当たり前である必要はない。
 
〇LDKでもなく、〇帖とかいう部屋もなく、
収納部屋もなくても一向に差し支えないのである。
 
本人の意識のコントロール、
自由さ加減だけが問題であり、
実はそれが障害であり、壁である。
 
クライアントはその意識を
巧みにコントロールしているように見える。
 
そしてその意識をどう形にするのか託された。
 
 
敷地の広さは20坪。
コンパクトであればあるほど
人の行動や身体感覚への眼差しが如実に表れてくるので
設計は簡単ではなかった。
 
そしてその難しさを克服して出来たこの小さな家は、
どこか人間という動物の「巣」を
現代的に表出させたような雰囲気を持たせることを可能にし、
クライアントの意識を形にすることが出来たと思う。
 
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オープンハウス初日を終えて

 
見る、聞く、触る、味わう、嗅ぐという
人間が持って生まれてきた
感覚だけではなく、
書く、喋る、笑う、編む、などなど
いっそうのびのびと
働かせられるような環境を、
そして人々の心身が
のびやかに活動するような
環境が出来たんじゃないかと思います。
 
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「草屋根の家」オープンハウス

 
この家の屋上は
持ち上げられた地面である。
 
そこには草木が生え、
鳥が集まり、
人々が集まるだろう。
 
そこには地上の生活と
空中の生活の両方がある。
 
空気を含み、
光を吸い込み、
音を閉じ込め、
人や物を抱擁する。
 
 
身の回りの埃、
足元の野芝、
地軸。
 
上を向けば星。
 
春夏秋冬、
朝昼夜、
時々刻々
二度と同じことはない。
 
 
22日23日、
興味のある方は是非!