
何か共通の反応があるのか。
反応の結果はさまざまな形をとっていても
その奥には何らかの法則が見いだせるのではないか。
と、何かを求めるべく足を運んだ。
想像のいとぐちは発見にあり、
発見は着目を変えることから始まるのだろう。

何か共通の反応があるのか。
反応の結果はさまざまな形をとっていても
その奥には何らかの法則が見いだせるのではないか。
と、何かを求めるべく足を運んだ。
想像のいとぐちは発見にあり、
発見は着目を変えることから始まるのだろう。

時間にすればせいぜい数分くらいのこと。
あるいは数秒だったかもしれない。
そんな短いすれ違いが
頭に鮮やかにこびりついてしまい
忘れられないものになることがある。
街角や街路ですれ違ったのが
とびきりの美女でなくても。

内部の打合せ。
彫刻と建築との違いは、
建築には「内部空間」があること、
人が中に入って
感じるものだということ、
が外から鑑賞する彫刻との
違いなんだろうな。

メキシコ亀甲竜(夏型)
冬に葉を落としてからというもの
春になれば復活する、
と期待してからもう夏が終わろうとする。
もちろん理性では知っている。
確かめるのが怖いのだけど、
それら沈黙を続ける植物は
すでに生命活動を終えているのだろうか、、、
もしかしたら
アフリカ亀甲竜(冬型)なのかもしれない、
と根拠もなく冬を待つことにする。

住宅の設計は、
たぶん事実小説を組み上げるのに
似ているのだと思う。
単に事実の羅列では
小説にならないように、
使い勝手を処理しただけでは
住宅にならない。
時代背景の中に位置付けるように、
気候や風景、歴史の中に収めるのである。
一方では予算や材料、
施工や法的なことなどの制約があり、
他方には世界観や人生哲学の
崇高さが求められ、
住み手の生活と関心や執着、
はたまた夢と現実を
満たさなければならない。
一つ一つの謎解きをしていくようなもので、
住み手と施工者と設計者とで
一つの作品に仕上げていく過程の中で、
希望と現実を繰り返すように、
紙の上から現場へと移り、
躯体が組み上がっていく。

お忙しい中、
また遠いところお越しいただき
ありがとうございました。
いつも思いますが、
どんな方法であれ
表現された建築を通じて人とつながるのは、
生きることの一部にすぎないですが、
その表現は
他の何ものにも遥かに超えて
大きいと思います。
そのような機会をくださった
クライアントのHさん、
ありがとうございました。
住宅のデザインというのは、
人生のあらゆる面が
凝縮して表現されるものなので、
わずかな紙面・文面では
とうてい述べきれません。
一人一人の人間と物とのつながりの中に
生じるものであり、
家の姿形は
家人の人生のあらゆる面から
生まれたものだと思います。
富も、地位も、利便も捨てて
物の世界に埋没し
一体感を味わえる恍惚境を生み出す手段、
物を徹底して人間の側に近づけることで、
星や月を眺めながら
うっとりと出来るスペースが
生まれるのでしょう。


この夏、
猛暑でいくつかの植物がやられた。
それでも水をやってきたのである。
根が生きていれば
必ず息を吹き返すと信じ、
鉢や土を変えメネデールを注ぎ
世話をしてきた。
葉や土を湿らせるだけの行為を、
スタッフとじっと繰り返し続けたのだ。
愚かにも。
枯れ木に花を咲かせましょう、
と花咲か爺さんは言う。
作物と人間が密接だった時代、
あの民話をもっと切実に受け止めていたのだろう。
今では我が事務所では
枯れた植物を蘇らせる爺さんこそ
憧れの存在なのである。