
天地をつなぐ飛行物体。
地上から数十メートル浮上し回旋する。
複雑なこの世の現象を解いてくれる
一つの鍵を発見した時の喜びのようなもの。
驚きというものは一致しているのかもしれない。
誰かだけが覗き見たものではない。
みんながそれを覗き見る。
「オイ見ろよ。この素晴らしい世界を!」
岡山では放送されないと思いますが
6月23日毎日放送の「住人十色」で
「草屋根の家」が放送されます。


美か醜か、
便か不便か、
堅いか脆いかなどを問わず
人間の手が入って生み出された一切の姿を
造形として取り上げるところから
再出発してみよう。
「美醜」「本末」「善悪」「功罪」
といった評価をあげたところで、
いずれも何らかの価値観によって
一方を好ましいもの
他方を好ましくないものと判定する。
ただ建築の設計の上で、
予算的なこと、力学的なこと
施工上のことなどはいいけど
もはや使い勝手とか、
らしさだとか、
さらに造形や色彩などとなると、
主観的なものがかなり入って、
好き嫌いがものさしとなる。

波間すれすれを浮遊していた。
それは魂が母胎にとらえられる
故郷の瀬戸内海を
彷徨している追憶なのか、
父母来生以前の原初の海を
泳いでいたような記憶なのかはわからない。
もしかしたらそれが波間でなく38度線なのかもしれない。
心が楽しい時、
すべてのものは美しく
生き生きとして感じる。
嫌なことがあっても
それを克服する道が見えてくる。
楽しそうにしていると
周囲の人までついつられて
愉快にならずにいられない。
もうろう状態からそんな記憶や感情を
徐々に呼び戻すため、
事務所の近くにある植物を見に行った。

いささか学生としては時の積み重ねを
肩に背負い過ぎていたようにも思う。
流されずによく考えているからこそ、
もう少し自分の道を考えても
いいんじゃないかという、
我ながら妙な情動が湧いてくる。
他人の人生に踏み入って、
その敷かれたレールを
切り換えるデザイン程
難しいことはない。
だから自分でデザインするしかない。

事務所の近くの散り始めた夜桜
生きていくことは大変なことだ。
「世事わが事に非ず」に
徹底して生きられるためには、
よほどの楽観が必要である。
しかしなかなかそれが出来ないから
悩むのかもしれない。
人々が多様化、情報化の方向をとっているときは、
一人ひとりが何にこだわっているのかを知るだけでも大変な上に、
仮にそれがわかっても、
それを満足させる方法を見つけるのに苦労し、
またやっとそれを見つけたとしても
果たしてその人がその場にいてくれないかもしれず、
その他の矛盾した欲望の人の方が来てしまうかもしれず、
それを全部満たすことの難しさを感じる。
「年々や桜を肥やす花の塵」芭蕉

事務所のコーデックスが芽吹き、
長く続いた暗黒の冬も終わり、
事務所も春の陽気、
晴れ晴れとした空気に包まれる。
粗相このうえない僕にとって
下着や靴下、
はてはセーターを裏返しに着服して
人と会って平然と装っているのは常のことだけど、
このところ人の心の裏返しに出会うことがある。
自分なのか他人なのか
行動なのか言葉なのか
モノなのかカネなのかは確信できたけど、
いつか誰かは街路の乞食になりはてる、
そんなジャン・バルジャン的夢想も
一興というもの。

寒い中、
また遠いところからのご来場、
準備していただいた工務店の方々、
この場を作っていただいたクライアントのTさん
ありがとうございました。
建築家はハンカチを汚さぬままに
哲学や思想をつぶやいてきた。
だから人々はそれを聞く耳を持たなかった。
小さな庭だけど掘り起こしては盛ってみた。
ものをつくるのは
そのものに生命を移すことである。

中庭に巨岩が居座っている。
工事の時に目を覚ました巨岩である。
この家が脇役になるくらいの巨岩である。
樹や石に神を見るのは日本文化の基層の性格だけど、
いまさらそれを持ち出すのはやめようということで、
巨岩が一つあるのは厄介だから
もういくつか置こうと考えた。
そうすれば物神性は少し和らぐだろうと確信し、
動かすことを伝えたと同時に、
監督の眉が曇ったのを見逃さなかった。
土に埋まっていた岩を掘り起こしては散りばめ、
散りばめては動かした。
散りばめるほど軽いものではないけど、
お陰で自然に溶け込んだ。
職人たちの力で仕上がった。
曇った眉が晴れ渡った職人の技術で完成した。
この庭園は未来を暗示しているに違いない。