年が明けやっと筆を持つきっかけになったのは、
太平洋を見渡しながらの配筋検査からである。
今年もいくつかの建築がいろんな場所でうごめき、
この大地を共有の財産として生活の基盤と考え、
町に山に海に囲まれて風景をつくっていく。
「家づくり」カテゴリーアーカイブ
AかBか
棟上げ
「青津参道の家」棟上げ
住宅の設計は、
たぶん事実小説を組み上げるのに
似ているのだと思う。
単に事実の羅列では
小説にならないように、
使い勝手を処理しただけでは
住宅にならない。
時代背景の中に位置付けるように、
気候や風景、歴史の中に収めるのである。
一方では予算や材料、
施工や法的なことなどの制約があり、
他方には世界観や人生哲学の
崇高さが求められ、
住み手の生活と関心や執着、
はたまた夢と現実を
満たさなければならない。
一つ一つの謎解きをしていくようなもので、
住み手と施工者と設計者とで
一つの作品に仕上げていく過程の中で、
希望と現実を繰り返すように、
紙の上から現場へと移り、
躯体が組み上がっていく。
ご来場ありがとうございました
お忙しい中、
また遠いところお越しいただき
ありがとうございました。
いつも思いますが、
どんな方法であれ
表現された建築を通じて人とつながるのは、
生きることの一部にすぎないですが、
その表現は
他の何ものにも遥かに超えて
大きいと思います。
そのような機会をくださった
クライアントのHさん、
ありがとうございました。
住宅のデザインというのは、
人生のあらゆる面が
凝縮して表現されるものなので、
わずかな紙面・文面では
とうてい述べきれません。
一人一人の人間と物とのつながりの中に
生じるものであり、
家の姿形は
家人の人生のあらゆる面から
生まれたものだと思います。
富も、地位も、利便も捨てて
物の世界に埋没し
一体感を味わえる恍惚境を生み出す手段、
物を徹底して人間の側に近づけることで、
星や月を眺めながら
うっとりと出来るスペースが
生まれるのでしょう。
スツール
形ある装飾ではなく、
形のない装飾概念はないのか、、、
素材そのものがもつ不均質性を
装飾的機能として
高めることは出来ないのだろうか、、、
人間の手の本来的な不均質が
作り出すムラやズレ、
素材の表面のニュアンスは
複雑な受容を帯びているのだろう。
家具職人の二宮くんが
槍鉋で仕上げた座面。
整形な骨格と変形した軒先
空間の場所や向き、
整形な骨格の中に段差で区切られた、
アンチバリアフリーな空間には
快適性や意匠性以上のものが
生まれる可能性がある。
フレキシブルで曖昧な空間が求められる中、
拘束された小ヴォリュームが集まる1階と
高い空間から低く水平に伸びる2階には
新しいものが生まれるのではないか、、、
西日が敬遠される中、
1日の終わりを太陽と共に過ごすことで、
次なるものが新たに始まるだろう、、、
§
このたび岡山市で進めてまいりました
「津島東の家」が竣工します。
クライアントのご厚意により
9月15日(土)16(日)にオープンハウスを行います。
お時間が許すようでしたらぜひお越しください。
当日はゆっくりご覧いただけるように
予約制とさせていただいております。
ご予約は下記、TEL・メールにてお問い合わせください。
現地の場所についてはご連絡いただきました方に
こちらからご案内いたします。
TEL:086-235-5516
Email:info@k-tenk.com
不在により電話がつながらない場合は
お手数ですがメールにて予約をお願いいたします。
濡れ手に粟
まずそこに立って見ることだ。
立ち尽くして目をみはり、
耳をこらすことだ。
心を白紙にして
事象をそのままに受けとめてみることから出発する。
それから山積みになった問題も乗り越え、
共に目標を目指し形にしていく。
ただかっこいいものを作りたいからとか
人の為にとか言いながら
アブク銭だけ執着し、
富に溢れて私欲のために独走していると、
居場所を失い
これから出来上がっていくそれは
きっと見通しの悪いものになっていくだろう、、、
誰かが言ってた。
「人の為って偽りって書くんだな~」って
生者必滅
生活の場
人と人との関係は
多くは利害関係で
結び合っているのかもしれない。
しかしその利害関係も
物質的なものから
次第に精神的なものへと
発展しようとしている。
裸の人間になったとき、
どれだけ利害が違うであろうか、、、
小さな仕事も大きな仕事も
本来の姿に帰った人どうしでつくるものは
これからの家づくりの理想である。
そして建築が生活の場として
つくられるとするならば、
建築の価値判定の尺度は
生活そのものにあり
生活の場とはどういうものであろうか、、、
を考えさせられる。