
80歳のおじいちゃんが作るフレームが
やっと出来た。
未完のままに終わるかと覚悟していたのだけど、
天は見捨てなかった。
人間の力をまずは信じよう。
買うこと作ることの意味を確かめるため、
自転車を組み立てる。
4月ももう終わるけど、
残りの春は快適な自転車通勤で楽しめそう。

80歳のおじいちゃんが作るフレームが
やっと出来た。
未完のままに終わるかと覚悟していたのだけど、
天は見捨てなかった。
人間の力をまずは信じよう。
買うこと作ることの意味を確かめるため、
自転車を組み立てる。
4月ももう終わるけど、
残りの春は快適な自転車通勤で楽しめそう。

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「ゑびすや」
内部が仕上がってきた。
村をおこしたり、
町を元気づかせるのに必要なのは、
道路や、観光施設や、
大規模なショッピングセンターを
つくったりすることじゃない。
本当はみんなの気持ちを
寄せ合うことなんじゃないか。
そして、みんなの気持ちの中に
街の姿を建てることなんじゃないかと、、、
ゑびすやの打ち合わせまでに時間があったので、
尾道のあるお店でチャイを飲み
見知らぬ人と話しながらそう思った。
自分ひとりの時間は砂をかむように、
退屈きわまりなく流れる。
砂をかむような現実
誰にも同じ現実を、
他人と、その町で、
少しズラしたスピードや、アングルから見るだけで、
ザラザラがウキウキになることだってある。
それは誰にでも出来ることだと思う。
だからおたがいそうしよう。

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尾道の町を歩いていると
映像作家の中島興氏に出会う。

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今日は「南国の家」のお引き渡しと
高知での営業活動でした。
お引渡ししたクライアントの声や、
会場に来られた方の声を
お聞きしながら
家づくりと言うことを
いつも考えさせられる。
家をつくるという行為は
創造的なことだと思う。
自分の生活の場をこうしたいと思う気持ちは
人の根源的な欲望なのだろう、、、
程度の差こそあれ
誰しも抱く想いだと思う。
気に入った小物を部屋に置く。
花を飾る。
家具のレイアウトを考える。
庭に草木を植える。
それらの延長線上に
家を建てると言うことがある。
どうせなら
パッケージ化された
商品としての家を買うよりは、
その楽しみを味わえる
家づくりを勧めたい。

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勝手ながら、
クライアントの椅子を
作ることにした。
しかし、デザインしてみれば
極めて観念的空想にふけりがちな
自分であることを感じ
不快である。
厄年を過ぎた
40過ぎの夢見がちなオジさんは
いただけない。
なぜ頼まれもしないのに
コレを作ろうと思ったのか。
商売を考えたからなのか、
新築祝いを差し出さなければならない
負い目からか、
それはわからない。
もしかしたら、
「変なものを送ってきやがって、
どこ置きゃいいんだ。
捨てれば目立つし。」
くらいをつぶやかれるのが
関の山かもしれない。
しかし、時すでに遅し。
今さらやめるわけにもいかないので
二宮くんと
スタッフの力を借り、
ザックリと仕上がった。

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「城南町の家」
スキップフロアを上がった先には、、、

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「南国の家」
このブルーシートの向こうには
アナタの知らない世界が広がっているやもしれぬ。
慌ただしかった去年を振り返る間も暇もなく、
今年からは関節の力を
ポキリ、ポキリと抜いて、
脱力していこうと思っていたのに、
年明け早々それとは正反対の行動に
辿り着いてしまい今日に至る。
と言うことなので
関節を抜きすぎたわけでもなく、
体調を崩したわけでもなく、
そんなことまで書かない方がいいんじゃないかとか、
正直すぎるとか、
色々なアドバイスをいただき
書く事に思い悩み
筆が止まってしまった、、、
わけでもありません。
気まぐれなだけです。
営業ツールとして発信している人にとっては
確かに正直すぎるかもしれないし、
もっと自分を飾って
良く見せるものなのかもしれない。
まぁ、1ヶ月も休んでしまったけれど、
気まぐれで始めたこの日記は、
自分でも驚く程に長続きしている。
コレはコレで自分の生活を客観化出来て、
正直すぎるボクにとっては意味のあることだが、
まだ気持ちのより深いところにあるらしき、
自分でもコントロールし難い部分、
想像力、感性、飛躍力といった部分を
検診することは未だ出来難い。
ご心配してくださっているクライアントや、
楽しみにしてくださっている読者諸賢、
気まぐれな日記ですが
思い出した時にいつでも覗いてくださいませ。
その時は誰も見たことがない世界があるやもしれぬ。

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昨日しめ縄を作りました。
まぁ、なんと月日の経つのが早いことか。
アッという間に一年が終わった。
今年もたくさんの人と出会い、
たくさんの建築を一緒に創ってきた。
建築を創るという行為は、
「何かを共にし、創り上げること」
という、欲望の共同化ということと、
とても深く交差している。
そこには、「共に創ること」という楽しさが、
本来なカタチで織り込まれているからである。
「そこに住む人」
「それを構想する人」
「それを作る人」
の欲望が共同化され、
それぞれ異なった方向に発散することなく、
一つに向かって求められているからである。
その行為は他のことには換えられない楽しさと
手応えが生まれる。
来年も、それぞれの欲望が美しく織り込まれて、
新しい次元を拓くこと。
勝つことも負けることも意味を持たず、
「私は楽しい」
という思いが
「あなたも楽しい」
という次元へとうまく接続し、
伝達していくような関係のカタチが
出来たらいいなぁと思っている。
(年末なので少し真面目に綴ってみました。)
それではみなさん、
良いお年を!

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今治の打ち合わせの途中、
しまなみ海道のSAにて。
生きていく上で
とても大切な愛とか恋とかを、
学校の授業で教えてくれないのと同じように、
建築教育でも
愛着、愛想、愛嬌
といったものは教えてくれない。
どんなに良い建築であろうとも、
持ち主や周りから愛されていないものは、
分かってしまう。
だからソレは直接的に係る人だけでなく、
なるべくたくさんの人から愛されて欲しいと
心から願う。
維持が楽で手がかからない、
というのはむしろ危ない発想で、
掃除や手入れが楽しく、
未来の子供たちにも残していきたい、
と思えるような
建築や街を作っていきたい。

↑
愛嬌のあるモノが出来そう、、、
スタッフが目をこすらせながら作った
「今治の家」と「一ツ橋の家」のスタディ模型

↑
「塚ノ原の家」のリビング
夏には花火が見えるらしい、、、
週末は、クライアントのご厚意で
予約制でしたが高知「塚ノ原の家」の
オープンハウスをさせていただきました。
寒い中、また遠くからのご来場
ありがとうございました。
なんとなく雰囲気を伝えることが
出来たんじゃないかと思います。
砂浜にパラソルを立てる時、
どこに立てるか。
花見の時はどこに陣取るか。
人は本能的に居心地の良さそうな場所を
嗅ぎ取る嗅覚がある。
設計の際にも設計者としての色眼鏡をはずして、
本能的な嗅覚をとがらせて、
敷地と対峙すべきだと思う。
敷地のどこが一番心地良い場所になるのか。
自分の持つ皮膚感覚を大切にして
設計に取り組まなければならない。
もちろんこの家の心地良い場所はここ。
他にももちろんあるけどここかな。
すぐ帰る人。
つい長居してしまった人。
いろいろ質問してくる人。
まな椅子が欲しいと言う人。
反応は様々。
以前、内藤廣の本に書いてあったことをフと思い出した。
「デザインとは翻訳すること」だと言う。
デザインはモノとヒトとをつなげるための道具。
モノとヒトとのコミュニケーションを支えるもの。
そういう仕事をしていきたいとフと思った。

↑「南国の家」
南北に抜ける風が気持ちいい。

相変わらずあっちに行ったり
こっちに戻ったりの生活で、
いささか頭もカラダも浮遊している。
先日は「塚ノ原の家」の引渡しでした。
こんな生活なので昼食は決まって車内で
運転しながらのおにぎりとお茶。
何故かこのメニューが
定番になりつつある。
ヤバイぜコレは。
おにぎりとお茶では
どうにも余剰の力は出ないよ。
それを察したのかどうかは分からないけど、
引渡し後の会食で
クライアントに焼肉をご馳走になる。
コレで力も溢れ出て、
残りわずかな今年も
乗り切れるでしょう。
ありがとうございました。