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曼荼羅としての建築

建築というのは

壁や屋根を並べただけでは成り立たないんだ.

智山派が空海の密教を受け継ぎながら

覚鑁上人の息吹を抱き込んで続いてきたように

建築もまたただの形ではなく

「伝え」「重ね」「繋ぐ」ことが本質なんだと思う.

智積院の成り立ちを見てみると

秀吉の息子・鶴松の菩提を弔うための場を家康が再興した.

敵味方・血筋のしがらみ、そうした人間模様を超えて

いまや全国の末寺を束ねる拠点になっている.

つまり建築は政治だとか宗教だとかを超えて

「人が願う場」を受け止め続ける容器である.

だからこの建築も

単なる「寺院風の形」なんて小さな話じゃなくて

学問と修行を積む道場として

密教の「深さ」と人間の「愚かさ」さえも

抱き込める場を目指す.

密教の曼荼羅みたいに中心と周縁が絡み合い

外から見ればごちゃごちゃしているようで

内側に入れば「一つの秩序」に収まっていく

そんな空間をつくりたい.

つまり建築を「曼荼羅化」する.

真ん中に柱を立てて偉そうにするんじゃなくて

縁側や回廊、庭の石ころや柱にまで「意味」がにじみ出る.

人が修行し、笑い、迷って

また帰ってくる場所.

本堂は高野山を向いて東に開く.

それはかつての祈りと未来をつなぐ方向である.

光の筋が差し込み、影が寄り添うその瞬間

この建築ははじめて“場”になる.

そのすべてを建築に抱き込む.