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余白の竹原、構成の倉敷

 

江田島での打合せの帰り

高速道路が通行止めになっていた.

やむなく海沿いの道を走り

途中で竹原に立ち寄る.

思いがけない寄り道だったが

その静けさはどこか必然のようにも感じられた.

 

竹原と倉敷を歩くと

町並みとは建築の集合ではなく

時間が設計した都市空間であることに気づく.

 

竹原は塩づくりの営みから生まれた商人の町だ.

暮らしの延長として建築が建ち

その連なりが静かに残った.

軒の高さ、瓦の光

格子の奥の気配までが穏やかに揃い

町全体がひとつの建築のように感じられる.

 

そこにあるのは「住むための美」

語りすぎず、整えすぎない余白が

空間に深さを与えている.

 

一方、倉敷は物流が骨格をつくった都市である.

運河に沿って白壁の蔵が並び

視線は遠くへ抜ける.

構成の意志がはっきりとした

見せるための風景だ.

 

倉敷が「構成の美」だとすれば

竹原は「余白の美」

 

都市デザインとして完成された倉敷.

時間が静かに沈殿した竹原.

 

建築の強さとは形の新しさではなく

時間の中でなお静けさを

保てることなのかもしれない.

  

 

錦帯橋

 

柳井の現場の途中、錦帯橋に寄る.

 

錦帯橋は五つの橋が連なる.

ただ連なっているのではない.

中央の三連は迫持式と呼ばれる木のアーチ.

両端の二連は静かに反りをもつ桁橋だ.

 

この五連という構成は

世界的に見てもきわめて希である.

だがその希少性は奇抜さから生まれたものではなく

「流されない橋をつくりたい」

ただその切実な願いが

形となった結果である.

 

急流に抗うのではなく受け流す.

力を一箇所に集めず分け合う.

木を組み、重ね、押し合いながら

アーチは自ら立ち上がる.

そこには理屈よりも先に

身体で覚えた構造の知恵がある.

 

錦帯橋は技術の記念碑のように見られがちだけど

自然と向き合い続けた時間の集積であり

人の手が風景に学び続けた痕跡そのものだ.

 

現代においてもこの架橋技術は高く評価されている.

それは古いからではなく

いまなお合理的で

しなやかで

美しいからである.

 

阿波の法隆寺

計画地を見に行ったついでに丈六寺を訪ねる.

ここは「禅宗建築の粋」なんて言われるけど

石段を登り切ったころには

建築美を味わうより先に膝が笑う.

で、その膝の震えが妙に禅的なんだな.

でもただの古寺じゃない.

戦国のときには火だの血だの散々な目にあっている.

普通なら跡形もなく消えるところを

丈六寺はちゃっかり残っている.

柱や梁だってちょっとすすけた顔で

「いやぁ、昔はいろいろあったんですわ」

って言っているような気さえする.

それでいていまも地域の人が集まって

祈ったり祭りをしたりする.

観光用の「古刹」じゃなくて

ちゃんと人の生活に組み込まれている.

寺っていうのは建築の博物館じゃない.

日々の呼吸が染みついているから生きている.

「静寂の古寺」とはちょっと違う.

むしろ賑やかな「日常の寺」

そういうのが本当は建築を生き生きさせるんだろうな.

結局丈六寺は「禅宗建築」で「戦国の悲劇」で「地域の拠点」

どれか一つに絞ろうとするとするりと逃げる.

だから面白い.

見る人それぞれに違う顔を見せる.

掴みどころがないようでいてそこが魅力なんだと思う.