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阿波の法隆寺

計画地を見に行ったついでに丈六寺を訪ねる.

ここは「禅宗建築の粋」なんて言われるけど

石段を登り切ったころには

建築美を味わうより先に膝が笑う.

で、その膝の震えが妙に禅的なんだな.

でもただの古寺じゃない.

戦国のときには火だの血だの散々な目にあっている.

普通なら跡形もなく消えるところを

丈六寺はちゃっかり残っている.

柱や梁だってちょっとすすけた顔で

「いやぁ、昔はいろいろあったんですわ」

って言っているような気さえする.

それでいていまも地域の人が集まって

祈ったり祭りをしたりする.

観光用の「古刹」じゃなくて

ちゃんと人の生活に組み込まれている.

寺っていうのは建築の博物館じゃない.

日々の呼吸が染みついているから生きている.

「静寂の古寺」とはちょっと違う.

むしろ賑やかな「日常の寺」

そういうのが本当は建築を生き生きさせるんだろうな.

結局丈六寺は「禅宗建築」で「戦国の悲劇」で「地域の拠点」

どれか一つに絞ろうとするとするりと逃げる.

だから面白い.

見る人それぞれに違う顔を見せる.

掴みどころがないようでいてそこが魅力なんだと思う.

畦地遺跡の近くで

この地に立てば耳に届くのは

風の音ばかりではない.

かつて火を囲み石を削り

土を焼いた縄文の人々の気配が

いまも土の奥底に息づいている.

畦地遺跡に眠る磨かれた石斧の面

鋭さを宿した尖頭器の輪郭

土師器の破片.

それらは単なる出土品ではなく

大地に刻まれた呼吸であり

時を超えていまを支える「骨格」である.

土器に火を映し

水をたたえ

森と語らいながら生きた縄文人の暮らしは

いまも風のざわめきや土の匂いに溶け込んでいる.

その歴史の層に呼ばれるようにして

陶芸家の夫婦がこの地に根を下ろすこととなった.

土を捏ね

火を入れ

器を立ち上げる.

その手は遠い縄文の呼吸と共鳴し

ひとつの連なりを織り成す.

人と土地とが交差し

時間と空間が絡まりあう地点にこそ

住まいは生まれる.

設計とは単なる図面を引く作業ではない.

ここに棲む人の営みと

この地に積層した記憶とを

ひとつの形に編む行為である.

だからこそいま私たちは契約を交わす.

それは紙に署名する行為でありながら

実のところは縄文から続く千年と

これから紡がれる未来とを結ぶ

「誓い」そのものなのかもしれない.