今年の春に引き渡しした家の撮影。
透き通った川のせせらぎに誘われながら、
住宅地の中に入っていくと、
宙に浮いたような庭が目の前にあらわれる。
宙に浮いた芝も梅雨とともに
過ごしながら青々と育ち、
灼熱の太陽のもと、
形容しがたい気配が
その場所に馴染んでいるようにも見えた。
どこからか蝶々やバッタがやってきて、
カエルが生息する。
外部から生命体を取り込んで、
静かに何かを待ち続ける。
その何かはわからないけど、
不穏で、しかも悦ばしくもある何か。
緑という名の宇宙的物質が
この地球を覆うのではないか、
と、、、
Yさん、ご家族の皆さま、
暑い中撮影のご協力ありがとうございました。
水草は私のボタニカル・ライフに
三角関係を持ち込んでしまったようですけど、
ほしかった水草を大事に育ててみます。
「草屋根の家」カテゴリーアーカイブ
洞窟の記憶
人は広大な草原や、
渺渺たる大海原の真ん中に出ると、
底なしの不安に襲われる。
このような不安を
解消してくれる存在は何なのか?
それが洞窟に他ならない。
ほの暗い林床のように暖かく、
また樹上にいるような安心感を得られる。
草屋根の家には
洞窟や山容の記憶の源がある。
浴室のドームを見上げると、
それはネアンデルタール人が見上げた
洞窟の天井だったにちがいない。
年内には「草屋根の家」が
HPで紹介出来るやもしれぬ。
本当とウソ
雨の中の草屋根の家
取材してくださった方々までもがこの家を愛し、家人を愛す。
みんな本気で仕事してるから
本気で感じているのだろう。
§
もし本当に建築を愛し、
建築に教えられ、
建築と一つになるならば、
それは遊びとも決して無縁ではなく、
遊びを愛し、
遊びに教えられ、
遊びと一つになれる。
そうすれば建築にも興味を持ち、
同じように遊びにも興味を持ち、
設計は楽しみを増すだろうにと思う。
ウソの建築を大切にするものは、
遊びにもウソを持ち込み、
表面的で住みにくい世界が出現する。
人の前でウソの姿を見せ
人の目を欺いて本当の姿を見せる。
心すべきことだ。
§
一年経った安並の家
さらに自然と一体化し、
生活と一体化する。
大島の家
いよいよ着工。
市道をまたぐように架かる鳥居。
レベルを覗くスタッフ。
小さな町の小さな山のふもとの小さな公園のそばに建つ大きな遊具のような洞穴
先日のオープンハウスでの沢山のご来場、
そして貴重な時間をつくっていただいた
クライアントのTさん、
ありがとうございました。
また遅くまで作業してくれた工務店のTさん、
お疲れさまでした。
この世の中には異人とも呼ぶべき人が確かにいる。
この家のクライアントもその一人である。
もちろん工務店のTさんもその中に入る一人かもしれない。
この建築はその人物たちの異人ぶりを
そのまま形にしたとも言える。
その人物、その形、その生活を主体として考えるならば、
家はかくのごとくすでに解体している。
自らの思考の中で。
住むことを主体とするならば、
住む場所は当たり前である必要はない。
〇LDKでもなく、〇帖とかいう部屋もなく、
収納部屋もなくても一向に差し支えないのである。
本人の意識のコントロール、
自由さ加減だけが問題であり、
実はそれが障害であり、壁である。
クライアントはその意識を
巧みにコントロールしているように見える。
そしてその意識をどう形にするのか託された。
敷地の広さは20坪。
コンパクトであればあるほど
人の行動や身体感覚への眼差しが如実に表れてくるので
設計は簡単ではなかった。
そしてその難しさを克服して出来たこの小さな家は、
どこか人間という動物の「巣」を
現代的に表出させたような雰囲気を持たせることを可能にし、
クライアントの意識を形にすることが出来たと思う。
オープンハウス初日を終えて
「草屋根の家」オープンハウス
この家の屋上は
持ち上げられた地面である。
そこには草木が生え、
鳥が集まり、
人々が集まるだろう。
そこには地上の生活と
空中の生活の両方がある。
空気を含み、
光を吸い込み、
音を閉じ込め、
人や物を抱擁する。
身の回りの埃、
足元の野芝、
地軸。
上を向けば星。
春夏秋冬、
朝昼夜、
時々刻々
二度と同じことはない。
22日23日、
興味のある方は是非!
もぐるか、見上げるか
大きな浴槽と
天窓がそこにあったとき
湯船に浸かりもぐるか
それとも
仁王立ちになって見上げるのか、、、
「草屋根の家」
来月オープンハウス予定です。
素材でござい/自然素材
「草屋根の家」では壁や天井の下地に使うバラ板、
いわゆる隠れる部分に使われる荒い杉板を仕上にした。
出来る限り自然な素材で、、、
自然素材の良さは、
非均質性、偶然性、変化の妙にあって
そこから深い味わいが生まれてくる。
しかし実際には柱や板などは均質化されており
言ってしまえば
自然素材の皮を被った工業製品とも言える。
だからこの家は
「どこか懐かしい」とか
「気持ちいい」とか
「人は生まれながらにして自然を求めている!」
というような能天気な考えよりも、
楽観的とも思えるくらい
ギョッとするようなものが
出来るやもしれぬ。
「光と闇」
近代建築の志向性は、
住居が持っていた家の中の
「闇」の部分を、
意味のないもの
わけのわからないものとして否定し、
排除して来た感がある。
もともと森林のサルから
進化してきた人間にとっても、
闇は恐れおののく空間だったかもしれないが、
一方では外敵から身を隠すことの出来る
安全な空間でもあった。
考えてみれば、
光と闇があるように、
苦あれば楽ありで、
大きくたって小さくたって、
難工事であればあるほど
創作の喜びは大きいと思う。
千利休の茶室や鴨長明の方丈の庵の愉悦は
想像以上のものであったのかもしれないですよ。
もっと過激に言えば、
建築そのものが
脳を気持ちよくする快楽物質なのです。
建築をすれば誰でも気持ちよくなれる、
そうささやいてるんですよ、
きっと。
上の写真は浴室。
最終的には土の中にいるような感じになればと思っている。
もう一枚は床材を仮置きしている写真。
大工さんもだんだん麻痺、
いえ楽しんでくれてる、と思う。