知恩院へ行く.2 ~ 末法の空に立つ門

 

では今という時代はどうだろう.

情報は溢れ

すべてが見えるようになったのに

何も信じられなくなっていく.

 

速さが価値になり

立ち止まることが遅れになり

静かに祈ることは

非効率だと思われる.

 

戦乱の代わりに分断が広がり

疫病の代わりに孤立が蔓延し

飢饉の代わりに

意味の枯渇がある.

 

これもまた、末法の形なのかもしれない.

 

 

ある禅僧はこう言ったという.

「濁った水も、静かにしておけば澄んでくる」

動かすことが善意だとしても

動かし続ければ

水はいつまでも濁ったままだ.

 

法然もまた

乱世の中で人々に伝えたのは

行動の処方箋ではなかった.

 

ただ、念じよ、と.

 

心の中に

一点の静けさを持て、と.

 

 

混沌の時代に

私たちはどう在ればいいのか.

 

歴史が教えるのは

末法は終わらないということかもしれない.

 

どの時代にも人は

「今がいちばん乱れている」と感じてきた.

それでも寺は残り

念仏は続き

三門はいまも

空に向かって立っている.

 

答えを持たないまま立つこと.

嘆きながらも、また手を合わせること.

それが、この場所を千年

生き続けさせてきた

人間の姿だったのではないか.

 

法然の言葉がある.

「いかなる者も、ただ念仏せよ」

難解な教義でも

完全な理解でもない.

ただ、この口から

一つの言葉を出すこと.

それが今日という日を

静かに終わらせるための

たった一つの作法かもしれない.

 

 

知恩院の三門をくぐるとき

人は少し背を低くする.

それは礼儀ではなく

本能かもしれない.

測れないものの前に立つと

人は自然に

頭を垂れるのだ.

 

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