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事務所内劇場

 
HP上で日記をつけ始めて
沢山の人に見てもらいたいと願いながら綴って
10年になろうとしています。
 
あいかわらずよく続けてきたな、と
我ながら呆れていましたが、
もうそろそろ少しだけ
スタイルを変えようと思います。
 
それはスタイルが、
考え方や作るものに影響するかもしれないと
気がついたからです。
 
どう気づいたかは、
どう変わるかがハッキリしたら
わかっていただけると思うので
今は述べないことにします。
 
 
日記というものは
ハッキリした相手が見えない時は
何となく気が乗りににくくなるもののようです。
 
読者は少しずつですが
増えていっているように感じてますが、
しかし一方で姿形は見えません。
 
もちろん応答もありません。
 
空虚に紙飛行機を投げているようなこともあります。
 
そんな事を10年間続けてきたら、
何となくボク自身の考え方も
そんな紙飛行機状態になっているのではないかと
心配になっている自分を自覚するにいたりました。
 
ということなので事務所内に散乱してある
空虚な紙飛行機を充実させるために
快楽を求める必要があります。
 
それはスタッフの日記をのぞくという行為、
ある種の私的劇場と事務所内劇場を
つくり出していこうと思います。
 
軽妙洒脱な劇場になって
恥をさらすような事にならないように
スタッフと共に発信していきます。
 
 
 
 
クライアントと出会って2年近くたった今
四万十市「安並の家」の骨格が現れる。

学んだり、教えたり

 
この1ヶ月悪戦苦闘の連続である。
なかなか出口が見えない。
 
やはり二人では戦力になりそうにない。
少しでも光を一刻でも早く見たい。
 
 
そして今日一人新しい戦力が加わった。
 
廻りに流されずに考えている若者が
関東から縁もゆかりもないこの地へ流れ着いた。
 
 
 
書きながらモノをつくるというスタイルが、
これがわたくしには適してたであろうスタイルが、
違うのではないかと今も不安に思う。
 
スケッチやエスキスのスピードと展開を
増すことだけでなく、
最小限のスタッフへの伝達方法を
どのような時間の密度をとれば良いのか
あの手この手で
生き生きとさせなければならない。
 
設計教育には
共通に想定されるべき水準があるはずで
教える方も学ぶ方も
気持ちの中に
その水準は共有されなければならない。
 
ということでスタッフ二人を連れ、
現場に行き
帰りは閑谷学校に立ち寄り
二人の成長を期待することにした。
 
1029閑谷学校02
 
1029閑谷学校03

自然と人と建築

 
1年半前にお引渡ししてから、
写真撮影のために何度足を運び、
何度天候の気まぐれさに振り回されたのだろう、、、
 
ほんとに撮り終えられるのだろうか、、、
そんな先の見えないボクにクライアントは
 
「ここまで来たら良い状況で撮りましょう!」
 
の一言が絶え間ない力を与えてくれた。
 
 
展覧会のため、
最後の撮影には立ち会えなかったけど、
今日届いた写真を見て安堵した。
 
撮影のために休みを調整してくださったり
撮影中の無理な要望も
気持ちよく受けてくださったクライアントのSさん。
 
そして、遠くまで何度も根気強く妥協せず
足を運んでくださったカメラマンのNさん。
 
ありがとうございました。
 
 
 
このカットは、夕陽を浴びた軒下の陰影が美しかった写真です。
 
 
今日までのプロセスもあると思うけど
良い写真が出来た。
 
人間を外さずに入れて、
しかもズルズルとした生活臭の嫌味もなく。
 
人間と建築が5分5分の関係になっている時を撮っている。
自然と建築の関係も然り。
 
空の状態、雲の姿と建築が良い状態で撮っていて
決して建築だけが主役でない。
 
 
 
人間と自然がいて
その狭間に建築があるという状態が
なんとも美しいですね。

お礼

 
遅くなりましたが、
シルバーウィークから始まった
4日間の建築展へのご来場、
ありがとうございました。
 
 
何かしらのきっかけで
興味を持って足を運んでくださり、
行動してよかったなぁ、、、
と、次へとつながる何かを感じました。
 
興味を持っていろいろ聞いてこられる方や
じっくりと展示物を見て帰られる方、
屋上で過ごすスタイルはさまざまでしたが
共通して言えるのは、
屋上へたどり着いた満足感と
疑いのない空気感。
 
個人的にも建築が風に反応するのは
概念としては面白かったけど、
なかなかのスリルを味わうことも出来ました。
 
案の定、3日目には
皆さんが心配していたように雨が降り
展示物を事務所へ避難せざるを得ないこともあったけど、
それ以上に何か見えない好感触を
得ることが出来たんじゃないでしょうか。
 
内容も場所も決まっていないけど、
これからも興味を持って足を運んでくれるような出来事を
発信していこうと思います。
 
 
 
テンキュウカズノリ設計室
平野建築設計室

楽観的でもなく、悲観的でもなく

さわやかな秋晴れの朝。
 
 
久しぶりに早朝出勤し、
進行中の物件を再確認。
 
 
 
語りかけていたスタッフが一人巣立った。
 
これから社会で何をやってくれるか楽しみである。
 
それはたった2年半だったけど
私の何がしかが
少しは移植されているだろうという
設計者としての自負があるから。
 
家族が増えた今
体が良くなったら
表面的ではなく
建築をもっと深く好きになってほしい。
その時また会うことが出来るかもしれない。
 
 
 
成長して巣立っていく者。
不器用だけど地道にコツコツ成長している者。
そして事務所に新しい風を吹き込んでくる者。
 
 
楽観的か悲観的かと言うよりも
より良くするためには
それぞれの自発的な意志によって調和していき
チャレンジしていかなくてはいけない。

一瞬の訪れ

 
「建築家は、ひとびとの共通の願いや喜びを
カタチにすることを求められているのだ。」
 
香山壽夫の言葉である。
 
 
その内なる秩序は一人ひとりに与えられているけど、
それは秘められ隠されていることがほとんどである。
 
しかし、それはまれにそして瞬時に示されることがある。
 
目を凝らし手を動かす一瞬の時に。
 
この伝え方が良いのか悪いのかわからないけど、
一瞬の訪れが4日間の中でいつ来てもいいように
準備しておこう。
 
 
平野。
 
 
 
 
〇・△・ケンチク~小さな建築展~

日時:2015年9月22日(火)~9月25日(金)
場所:岡山市北区丸の内1-13-10 屋上

それぞれの「ふるさと」

 
昨日は四万十市で「安並の家」の地鎮祭。
 
 
 
郊外を越えて田園風景が広がる土地を
ドライブする機会は少なくない。
 
夏も終わり、心地良い秋の夜風と虫の音が
よりいっそう「ふるさと」らしい風景を演出する。
 
しかし数分もたたないうちに景色は変わり
郊外型の飲食店やコンビニ、電気屋などが現れる。
 
 
前者のような原風景よりも
後者のような光景で育った世代にとって
「ふるさと」の光景は
どの街にも見たことあるような
国道沿いの光景なのかもしれない。

小さな建築展

写真は22坪の家の撮影風景。
過去にも狭小地でしかも変形地で計画した16坪の家や、
今も20坪の家を設計中。
 
 
 
歴史的に見ても
「茶室」や「方丈記」などがあるように
日本人には小さな空間を
うまく使う知恵が備わっているように思う。
 
しかし空間としては、
確かに人間の身体寸法という
デッドエンドはある。
 
住空間を狭めていくと
その極限にすぐ行き当たってしまいそうだけど、
むしろ追い詰めるほど
新たな空間が現れてくることがある。
 
 
「無一文の暮らしこそ理想になる。」
 
しかしここまで来ると
精神論にまで及んでしまうので、
例えば
 
「住まいを着てしまえばいい。」
 
という考え方などを
まずは「小さな建築展」で
投げかけてみよう。
 
平野。

屋上○○計画

久しぶりに事務所の屋上に上がる。
 
この灼熱の中
フツフツと沸騰し始めるものを感じる。
 
 
屋上緑化計画はいまだ進行中なのだけれど、
この場所を使うことに関して言えば、
緑化だけが目的ではない。
 
それらを通じて何かを発信していく場所の
一つであるとするなら
これからの家づくりと錆びれかけた街へ投げる
一つの疑問符なのだと思っている。
 
これをやってみるからこそ、
今の街づくり、家づくりが砂上の楼閣であることを
伝えることが出来るのではないだろうか。
 
みんなそれはウソなんだよと、
王様は裸だと叫んだ子供のように、、、
 
 
限られた時間の中で
まずは動いてみますか?
 
平野。

技術と根気

先日は今治市『玉川の家』の棟上げ。
 
規則性を持ったヴォリュームが
機能的に反復され、
それぞれが肩を寄せ合い、
広い敷地の中で
凛とした骨格が現れる。
 
 
暑い日の中での棟上げ。
 
建築を作る上で
技術と根気というのは大切だなぁ、
としみじみ思う。
 
豪快さと繊細さ
おおらかさと正確さ
単純さと複雑さ
 
同時に存在しなくてはならない
相反する要素を紡ぎ合わせられるのは
技術と根気の力なのだ。
 
汗だくになっている大工さんをみていつも思う。
 
 
0808-玉川の家02
5間(9.1M)豪快に飛ばしている梁。
 
 
0808-高松番町の家
『高松番町の家』の地鎮祭。
氏神さまと打ち合わせ中の神主さん。